自分の母とは娘のうーたが生まれてから
うーたの顔を見せるついでもあって頻繁にビデオ通話をしています。
そこで話しているうちに
母は大変な人生を歩んでいた事を知り
何か残しておきたくなり記事にしました。
これは今から約60年前からのお話です。
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母の子供時代
母は秋田県に生まれ4人家族の長女だった。
自分の立場からすると祖父、祖母、母、叔父の四人。
幼少期の頃はあまり裕福な家庭ではなく
当初住んでいた家は小さくお世辞にも綺麗とは言えない
2部屋程度の小屋のような家だったと話していた。
そしてその頃引っ込み思案であまり人と話せない母は
実家の風貌もあり
周りにいじめられていた。
さらにあまり勉強も出来なかったようで
母自身、私は頭が悪いと言っていた。
引っ込み思案、ボロ小屋、ばか。
そんな要素が重なって
小学校低学年のうちは友達ができない女の子だった。
しかし高学年になる頃
ようやく友達と呼べる存在ができ
色々と勇気付けられ
いじめられる事も少なくなっていった。
中学生に上がると
母は美術部に入った。
そして描いた絵が入選するほど
勉強は出来ないが
美術のセンスはあったらしい。
しかし美術部で必要な画材を買い続けるお金が当時なかった。
母は自分からあれが欲しいこれが欲しいと親に言えない性格だったため
半年ぐらいで美術部をやめた。
だが
何かしら部活動には入らないといけない学校の規則があり
母はお金がかからない卓球部に入る。
美術のセンスはあったようだが
運動は苦手だったらしい。
それに加えて通常よりも
赤血球の数が人より三分の一足りない体質で
鼻血などがでると
大量に出血する事があった。
頻繁に貧血も起こしていたらしい。
それが原因で卓球部も休みがちで
大会等も出られなかったという。
勉強も運動もできなかった母は
高校の進路に迷った。
合格できそうな学校がなかったらしい。
そんな時家族は引越しをする事になり
その引越し先の近くには
洋裁の専門学校があった。
元々手先が器用で絵も描ける(デザイン画など)事もあり
母は洋裁学校に進路を決めた。
そこでは母の得意分野という事もあり
成績は優秀だったらしい。
そして元々友達が少なかった母はこの高校生活で
友達が増え
小学校、中学校共にあまり人と会話する事が苦手な母は
人とのコミュニケーションが上手く取れるようになっていった。
(現在の母はうるさいぐらい喋る 笑)
こんなエピソードもあった。
生地を縫っている母の姿を見ていた先生に
『先生の仕事を手伝ってみないか』と言われ
ブラウスやスカートを作ったという。
そうして初めて人のために作るという事、
その事の対価としてお金を貰えた経験がとても嬉しく心に強く残っているらしい。
洋裁が出来て友人とお喋り出来た高校生活はとにかく楽しかったと言っていた。
社会人になって
そして高校卒業後は縫製会社に勤める事になる。
三年間勤める事になるが
母の仕事においてこの三年間がとても貴重で勉強になったという。
最初の一年はアイロンがけ。
2年目でミシンを使い裏地などを縫う。
仕事が早かった母は終わらない他の人の仕事も手伝っていたと言っていた。
父との出会い
仕事を始めて三年目の頃に父と出会う。
この頃の父は建具屋として働いていた。
母は長年付き合っていた彼氏がいたそうだが
その人はあまり喋れない無口なタイプで
陽気で楽しい父に母は惹かれていったという。
出会ってから8ヶ月という期間で結婚を決めた。
これが母の
困難な人生の始まり。
結婚を期に縫製会社も辞めた。
その頃母は21歳だった。
結婚、自分の誕生
母は父の母親が大好きだった。
父の両親と一緒に住む事を希望して父の実家に住む事になる。
そして幸せに日々を過ごしていた。
結婚してから2年後。
自分が産まれた。
そしてその2年後
自分の弟が産まれた。
しかし父は職を転々と変える人だった。
最初は建具屋。
そしてタクシーの運転手。
今の時代では需要の無さそうな仕事に就いていた時もあったという。
転々とする中で再び建具の仕事に就いた時に
まとまった報酬が得られそうな案件を引き受けた。
仕事に対して真面目な父は
しっかりと仕事をこなした。
しかし....
そのお客さんには報酬を貰えずに逃げられたという。
そこから父の借金が始まった。
消費者金融に手を出しはじめた。
そうして借金を背負った父と
これからの生活のため母はまた縫製会社に働きに出たそうだ。
もともと仕事の早い母は新しい環境でも
信頼されノルマ以上の仕事をこなしていたという。
その頃建具屋で苦い思いをした父は
また職を変えていた。
苦難
次に就いた職は運転代行サービス。
地方にはよくある
車での移動で飲酒をした後、
飲酒した運転手の代わりに運転をするというサービスだ。
その当時代行サービスは少なかったらしく
その会社を興すため
父は母に言った。
『親にお金を借りられないか?』と
事務所兼自宅を購入するお金が必要だったらしい。
母の両親に父と母二人で頭を下げ
お金を工面してくれるようお願いしたという。
母の両親は退職金の一部を貸したそうだ。
しかし親からお金を借りた事のない母は申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。
それから事務所兼新居の準備で忙しいかったのか父は
あまり家に帰ってこなかったそうだ。
何週間も連絡がなかった。
母はこれからのためのいろいろな手続き
会社を辞め自分たち子供達の学校、保育園などを進めていた。
それでも父からの連絡はなかった。
しびれを切らした母は引っ越す予定の家に出向いた。
そこは真っ暗な中
父がうずくまっていたという。
『あの借りたお金....無くしてしまった』
そう父は言った。
『なんでなくすの?』
母は問い詰めた。
父はこう答えたという。
車のルーフにお金を置いて
その事を忘れ車を発進させて
落としてしまった。
誰が聞いても信用できない理由を母は聞いた。
そんな馬鹿な話はない。
父は先にその事務所兼自宅を購入し住んでいるものだと母は思っていた。
母の両親から借りたお金は別の用途があったのではないかと
母は疑った。
元々ある古い一軒家で建物の価値はほとんど無いような物件で
土地の所有権を建物と一緒に買い取る予定だったという。
しかし実際は購入の話などはなく借りている状態だった。
じゃあ何の為に両親からお金を借りたのか?
母は全く腑に落ちないが
落として土地の購入は出来なくなったと
一点張りの父について行くしかなかったという。
その後
父の代行サービスは順調で収入も安定していたらしい。
仕事を辞めた母もその事業を手伝っていた。
消えた母の両親から借りたお金の真意はわからないままだったが
自分達子供の平穏な暮らしのため母はそれ以上問い詰めることもなく
日々を過ごしていた。
しばらくは平穏な日々を過ごしていた母にまた事件が起こる。
父の兄弟が借金を背負った。
その兄弟が背負った借金の取り立てに
自宅までいわゆる暴○○的な人が押しかけてきたという
兄弟の借金の保証人は父の親だった。
しかし高齢の為払う事が出来ず
父の方に取り立てが来たらしい。
当然父も払えるお金などなく
自分達子供の生活に支障が出ると判断した母は
離婚に踏み切った。
離婚
この日の夜の母の言葉は覚えている。
『お父さんはこれからいなくなるけど
貴方達のお父さんはあの人だけからね』
と
泣きながら話す母を見て
よく事情を飲み込めてない自分も泣いた記憶がある。
そうして母の実家近くに家を借り再スタートを始めた頃
離婚したにも関わらず
借金の取り立ては母の実家まで押し掛けていた。
この時その借金の一部を払ったと母は言っていた。
その話を聞いて自分は腑に落ちなかった。
離婚もしてて
払う義務も無いのにどうして?
母は言う。
刃物をチラつかせて脅されたと。
だからといって今の時代では考えられないと自分は言った。
しかし母は直面した恐怖に逆らえなかったと言う。
確かに当時はインターネットなんてものはなく
電話も固定電話しかなかった時代。
情報収集も満足に出来ないその時代に
自宅まで乗り込まれ刃物で脅されたら
萎縮して従ってしまうのかと思う。
そうして母は前回の父が落としたというお金と
意味のわからない自分には何も非のない借金を親にしてしまった。
きっと母は責任感の強い人間だと思うので
その頃小学生だった子供二人を独りで養う事に加えて親に借りたお金を返そうと
がむしゃらに働いていたのだろうと思う。
しかし自分の子供の頃はそんな状況に陥っていたのを感じさせられた事はない。
どちらかというと誕生日やクリスマスなどの行事毎で自分の欲しいプレゼントは与えて貰っていた。
それだけ子供には苦労を見せず
一人日々仕事と育児に奮闘していたのだろうなと思う。
再び
自分が小学生5年生の頃
父から母に連絡があった。
母に聞かれた
『お父さんと住みたい?』
その頃何も知らない自分と弟は
なんの深い考えもなく
『うん』
と答えた。
その頃秋田から離れ父は1人茨城に移り住み
運送業をしていた。
それまでの借金も減り
生活も安定していた頃だったのだろうか。
また一緒に住む提案を母にした。
普通ならばまた一緒になるなどという選択はしないだろう。
もちろん祖父と祖母には猛反対された
『あんな目にあったのにまだついて行くの?』
しかし母は
『普通に両親が揃った状態で暮らしたい
あの子達の父親はあの人しかいないから』
そして
自分達子供が何気なく言った
『うん』
という返事で
茨城に移り住む事を決めた。
きっと苦労する事がわかってても
自分達子供が
父と暮らしたいと思うなら
『あなた達のお父さんはお父さんだけなんだから』
あの日泣きながら話していた通り
子供の為を思って母は生まれ育った地元を離れる決心をしたのだと思う。
新しい土地へ
母は子供達二人と共に
馴染みのない土地へ移り住んだ。
自分は秋田県内で何度か転校を経験していて
場所が変わってもすんなり環境に慣れ
友達も増えていった。
だか母はそうはいかない。
知らない土地での1からのスタートはなかなか馴染めないものだったに違いない。
父の仕事は安定はしていたものの
家族を養うには
やはり母の働き手は必要だったのだろう。
地元と変わらず洋裁の仕事に就く事になる。
元々一人で日々仕事、家事、育児をしていた母だ
その辺については苦ではなかったと言っていた。
外の仕事だけではなく
家でもミシンを踏んでいた。
自分はその当たり前の光景を
なんとも思わず過ごしていたが
中学生ぐらいの時に
いわゆる不良グループの溜まり場に誘われていた。
今考えると何故?と笑ってしまうが
そのぐらいの年代だと不良グループの仲間という事柄がある程度ステータスになる。
一緒に行動していたら一目置かれるような事もあったし
何より人間関係がスムーズになる。
それまで不良グループの人達とは軽く会話する程度だったが
溜まり場に行った際
皆、喫煙や、意味もない力比べで一対一で殴りあったり、無免許でバイクに乗ったり。
その光景を目にした時
自分は真っ先に母がミシンを踏む後ろ姿を思い浮かべた。
今まで何となく見ていた光景。
その光景が
これ以上この場に踏み込んではいけないと
その当時の自分は思わされた。
自分が小心者だった事もあったと思うが
きっとその頃の自分は直接言葉で言われた事はないが母の苦労を肌で感じていたのだろう。
幸か不幸か
転校を経験して身に付いていた
周り馴染むという能力を発揮し
その後も不良グループとは付かず離れず接していけたと思っている。
父はその頃また職を変え
バスの運転手になっていた。
きっかけは今まで勤めていた会社内での部署の移動。
給料が以前より下がってしまうとの事での転職だった。
母同様、父も手先は器用で
特に車の運転技術は優れていた。
多分覚えている限りでは
バスの運転手は長い期間続けていたと思う。
仕事は安定したにも関わらず
一向に生活は安定していなかったと思う。
原因は父のギャンブル。
性懲りも無く父は借金を背負い
それを母が働き返すという事が続いていた。
そんな家庭状況の中
自分は高校に進学。
アルバイトをしたり
友人と遊んだりでほとんど家には寄り付かなくなっていた。
母とのコミュニケーションもほぼ無くなり。
ある時は夜遊びをして朝なかなか起きない自分を母が起こしに来た時に
機嫌が悪かったのか母をつき飛ばして倒してしまった事を今でも覚えている。
その頃の自分は
自分を中心に世界が回っているように思っていたのだろう。
ただ単に機嫌が悪く口うるさい母を突き飛ばした。
今自分に子供がいる今その事がどれだけ悲しかったのだろうと思っている。
しかし母はそんな自分の事をあまり否定する事はなかった。
友人を連れ自宅で騒いでいても
うるさいと注意はされる物の
もう連れてくるなと言われた事は一度もない。
自分の行動についてもそうだった。
美容の道を進みたいと言った時も
『やりたいならやってみたらいい』
『学費は出すけど
そのかわり生活費は自分で何とかしなさい』
そう言って決して安くはない美容学校の学費を払ってくれた。
しかしその裏にはどれだけの仕事をこなしていたんだろうと思う。
そうして自分の進路が決まった頃。
父もまたあまり家にはいなかった。
正直に言って父とはあまり一緒に過ごしたという感覚はない。
父は借金に続き今度は浮気をしていた。
増えて行く借金に加えて浮気。
そしてもう子供達も手を離れる年齢。
母は二度目の離婚を決意した。
そして相手の女性は経済的に余裕もあったらしく
父が作った借金に使ったお金を
手切れ金としてもらったそうだ。
母あの時別れてよかったと言っていた。
そのまま生活をしていたら
もっとどん底に落ちていたかもしれないからねと
苦労すると覚悟の上で茨城へやって来た母。
子供の為を思い我慢した日々の連続だった事だろう。
その最後がこの仕打ちとは
話を聞いていて父に怒りを覚えたと同時に
なぜあの時の自分はその事に無関心だったのか…
と反省した。
それから自分は高校を卒業して家を出る事になる。
そして母は何年かは弟が高校を卒業しある程度落ち着くまで
茨城に残る事となる。
弟が高校を卒業し二十歳を迎えた
今から十六年前に生まれ育った秋田に戻る事になった。
秋田に戻ってから
戻った第1の理由は高齢になった祖父、祖母の身の回りの世話をする為。
そこからの生活は穏やかでゆっくりした時間を過ごしていた。
秋田に戻った時
母は以前、祖母から借りた残りのお金を返そうとしたが
祖母は笑って『もういいから取っておきなさい』と言ったという。
仕事は自宅で近隣の住人の洋服のお直しをしたり
縫製会社に週3日程度の出勤をしていた。
自分がお正月などに帰省した時に
秋田に帰ってからの母は少し違う感じがした。
まずはお酒を飲むなんてそれまで知らなかった。
あと休む間もなく喋る。
そんな人だったっけ?と思うほど。
それだけ他人の為じゃなく自分の為にも時間を使えるようになり
のびのびと日々生活している様が自分の目にそう映ったのかもしれない。
別れ
それから三年が経ち
祖父が亡くなった。
祖父は亡くなる前
脱腸の手術を受けた
手術は上手く行ったのだが
その後も痛みがある
吐き気を催す
しかし検査をしても異常はない。
ある日寝室の二階から一階のトイレの間が何かで濡れていた。
祖父は失禁していた。
そうして脱腸の手術をしてから2週間後の朝
祖父は口から泡を吹いていたという
急いで病院に連れて行くと脳の血管が破裂し出血していた。
そして入院。
その後一年経たないうちに肺炎を併発し
亡くなった。
さらに祖父が亡くなってから祖母にも変化が。
ヤカンに火を当ててまま焦がす事が多くなったという。
そんな祖母の様子を見て母は週三日の出勤も出来ないと判断し
勤めている縫製会社にその旨を伝えた。
しかし返ってきた答えは
母の想像とは違って
会社に来れないなら仕事を自宅に持って行くと
会社でそんな制度はないと聞かされていた母は
『いいんですか?』と質問したところ
辞められたら会社が困ると。
それだけ母が今まで築き上げてきた技術の賜物なのだろう
そうして自宅で仕事を続けられ祖母の側にいることが出来た。
ある日祖母は
頭の痛みを訴えた
そうしてトイレに駆け込み嘔吐したという。
そして直ぐ様病院へ。
意識はしっかりしていたが
検査した結果
蜘蛛膜下出血。
その日のうちに手術を受けた。
次の日母が祖母の元に訪れると
意識はしっかりしていたらしい。
しかし母が祖母に名前を聞いてみると
返ってきた答えは
祖母は自分の名前を旧姓で答えたという。
そして年齢を聞くと
30歳と答えた。
次の日また年齢を聞くと
18歳と答えた。
祖母はその時80歳だった。
明らかに記憶に障害が起きていた
さらに次の日あの東北の大地震が起きた。
その影響で二、三日病院にお見舞いに行けずにいた。
再び祖母に会った時
もう喋る事も出来ない植物状態になっていたと言う。
最初に手術を受ける際こういう事態も予測されると
医師から告げられていたらしい。
それから一年10ヶ月の年月を経て
祖母は亡くなった。
亡くなる日の前
体温が低く冷たい祖母に
湯たんぽを体に当てたのが最後だったと言っていた。
そんな祖母と祖父を母は
すごく良くしてくれたいい親だったと言っている。
看取ることが出来て本当に良かったと。
そして先日
16年連れ添った愛猫も亡くなった。
実家の愛猫が亡くなった日
やましーおはようございます。こんにちは。こんばんは。 やましーです。 この記事にも登場する 先日2018/5/16 実家で飼っていた。 &nbs ...
今現在母は一人で生活している。
母の人生
自分は聞いた
自分自身の人生をどう思う?と
母はこう答えた。
『谷あり山ありだね
でも振り返れば楽しかったんだと思う
だって平々凡々の生活じゃなかったからね
でもね、それよりも今が一番人生で楽しい
一人で気ままに暮らして平々凡々な暮らしだけどね笑
離れていても電話で孫の顔も見れるしね
それが今までで一番幸せ
心配事があるとしたら
みんなに迷惑かけないで死にたいぐらいかな
みんなに少しでもお金を稼げるうちにお金を残してあげたいかな』
これが今までの母の人生で起こった出来事。
この時点で文字数が8000字近いが
そんな文字数では表せない苦悩や葛藤
そして
この記事ではそんなに触れていないが
楽しい事、嬉しかった事も同じくらいあったと思う。
自分が母に思う事
自己犠牲の人だなって思います。
手先は器用だけど生きるのは不器用な人。
とにかく自分自身よりも他人に尽くしてきたんだなと
もちろん自分も尽くされてきた中の一人です。
そんな母には感謝しかありません。
そして強い。
何があったって
じゃまた1からやればいっか!と思える人です。
実際苦労ばかりのような人生でも
落ち込んでる様子をほとんど見た事がないです。
そして自分が壁に当たる度に
よく
『くよくよしてないでやり直したらいいじゃん』
って。
正直その言葉で励まされる度
煩わしく思っていました。
何にも知らないくせに。
そんな簡単じゃないんだよって。
しかし母はそんな簡単じゃない事はわかっていたんですよね。
何度も何度も崩されてもコツコツ積み上げて行く事をしていた人間なんだなと
今ならわかります。
それを実行するのはどんなに大変な事か。
本当に強い人間だと思います。
今になってその偉大さを感じています。
そして自分は恵まれた環境に身をおけていると思います。
友人や職場。
その中でも特に母親には恵まれた。
世の中には親と仲が悪く
絶縁している方もいるだろうと思います。
自分の母は一生懸命向き合って愛情を持って育ててくれた。
そう育ててくれたから自分の今の環境が出来たのかもしれません。
そしてそんな母に貰った愛情を今娘に注ぐ事が出来ています。
離婚当時も不安な自分に言ってくれた一言。
『あんたが育てたら穏やかで優しい子に育つから大丈夫だよ』
と
その言葉に励まされました。
そして今、娘の事を心から大事だと思って生活を送れています。
母に対して上から目線になってしまいますが。
母の子育ては正解なんだと思います。
自分は子育ての正解はまだまだ全然わかりませんが
もし娘が将来パパが親で良かったと思ってくれたら
それ以上の答えはないと思うからです。
自分は母が親で良かったと心から思っています。
いつも陽気で『クヨクヨしたってしょうがないじゃん』って見守ってくれる
そんな強く、生き方は不器用だけど母のような親になりたい。
先日母は62歳の誕生日を迎えました。
言葉では直接言えないけど文字でなら伝えられるので
いつもありがとう。
これからも迷惑かけてしまうけど
元気でいて下さい。
出来れば元気でいて欲しいけど
もし病気になっても大丈夫
自分とうーたがいつでもいるから
母にもらった愛情、恩を倍にして返します。
感謝の気持ちを込めてこの記事に残します。
そして
母が一生懸命駆け抜けて渡してくれたバトンで今自分が走り始めました。
今度は自分が駆け抜けそして
娘にそのバトンを渡す時が来た時に
母はこんな人だったんだよって
こんな強い人の血を引いてるんだよって
いつも守ってもらってるんだよって
だからなんかよくわかんないけどきっと大丈夫
はっはっはって笑って言えるように。
ここに残します。